令和8年(2026)9月8日(火)  旧暦7月27日 先負
今朝の撮影 Data
SONY α1 II
Sigma 20-200mm F3.5-6.3 DG
iPhone 17 Pro Max
現像 Adobe Photoshop Lightroom CC
撮影枚数 834枚
- 読めるのに 書こうとすれば字が逃げる スマホの中に漢字住みけり -

 今朝は、瓜生岩子像の前で、いつものカラス夫婦に出会いましたよ。
これまで「あのカラス夫婦」と呼んでおりましたが、毎朝のように顔を合わせる仲なのに、いつまでも名無しではかわいそうです。 そこで今日から、浅草の「浅」と観音様の「観」をいただいて、お父さんカラスを「観太郎君」。

 お母さんカラスを「お浅ちゃん」と呼ぶことにいたしましたよ。

 名前を付けた途端、ただのカラスだった二羽が、なんだか昔からの朝友のように見えてくるから不思議ですね。

 今朝のお浅ちゃんは、雨上がりの境内をちょこちょこと歩きながら、濡れた石畳の上で何やら探しもの。一方の観太郎君は、柱の上に止まって辺りを見回し、時折「カァ」と鳴いておりました。

「おい、お浅。あほまろが、とうとう俺たちに名前を付けたぞ」
「知ってるわよ。あなたは観太郎だって」
「なかなか立派な名前じゃないか」
「名前負けしないようにしなさいよ」

  そんな夫婦の会話が聞こえてきそうでしたよ。

 そして今朝いちばん面白かったのが、この一枚なので、日記の表紙に使いましたよ。二羽は仲良く、瓜生岩子さんの銅像の上にちょこんと止まっておりました。
 まるで、
「本日より、我々夫婦が瓜生岩子さんの警護を担当いたします」
 とでも言っているような、妙に堂々とした姿ではありませんか。左に観太郎君、右にお浅ちゃん。偶然とはいえ、ちゃんと左右に分かれて収まってくれたので、これはもう「襲名披露」の記念写真のようですね。

「名をもらい 観太郎お浅 胸を張る カァと一声今日から朝友」(阿呆人也)

 今朝も雨の朝となりました。雨雲レーダーを見ると、30分ほどで雨雲が抜ける予報だったので、大きめの傘を差して散歩に出かけましたよ。
 予報どおり、本降りの雨はほどなく止みましたが、その後も小雨が時折ぱらつく、すっきりしない空模様でしたけどね。

 今日の最高気温は30℃前後まで上がるようですが、秋雨前線の影響で、雨の降りやすい一日となりそうです。どうやら、このぐずついたお天気は明日の朝まで続くようですね。
 秋とはいえ、まだまだ蒸し暑さの残る浅草です。傘を手放せない日が、もうしばらく続きそうですよ。

 さて、今日は、「国際識字デー(International Literacy Day)」です。
1965年(昭和40年)、イランのテヘランで開かれた世界文相会議で、当時のパーレビ国王が軍事費の一部を識字教育に振り向けることを提唱したことなどを背景に、翌1966年、ユネスコが9月8日を「国際識字デー」と定めました。
「識字」とは、簡単にいえば文字を読み書きし、その意味を理解する能力のことです。
 世界には今なお、さまざまな事情から十分な教育を受けられず、読み書きに困難を抱える人々がいます。文字が読めないということは、本が読めないというだけではありません。薬の説明が読めない、契約書が理解できない、災害時の避難情報を読み取れないなど、暮らしや命にまで関わる問題なのです。

 そう考えると、文字を自由に読み書きできるということは、実にありがたいことなのですね。日本では昔から識字能力が高かったといわれています。
 とりわけ江戸時代には、寺子屋などを通じて庶民の子どもたちにも「読み・書き・そろばん」が広く教えられていました。江戸の庶民がどの程度読み書きできたかについては、地域や男女、身分によって大きな差があり、「江戸の識字率は70%以上で世界一だった」といった数字をそのまま史実として断定するのは難しいようです。

 それでも、庶民向けの瓦版や草双紙、貸本屋が繁盛し、商売では帳面や手紙が日常的に使われていたことを考えれば、当時の日本に文字文化が広く根付いていたことは確かでしょう。
 ところが、その先人たちが聞いたら呆れるようなことが、最近のあほまろには起こっているのですよ。文字は読める。意味も分かる。それなのに、書こうとすると漢字が出てこない。

 先日、親しい友人の家が写っている昔の写真を偶然見つけました。
「これは懐かしいだろう」と思い、その写真に、
「君の家の写真を偶然発掘したので差し上げます」
 と、一筆添えようとしたのです。
 ところが――。 「偶然発掘」の漢字が出てこない。
「ぐうぜん……ぐうぜん……」
 頭の中では意味も分かっているし、読めばもちろん読めます。それなのに、ペンを握った途端、「偶」の字がどんな形だったのか怪しくなってしまったのですよ。
 おまけに、次の「発掘」まで巻き添えになって、
「はっくつ……掘るんだから、ええと……」
 なんて考えているうちに、だんだん腹が立ってきましたよ。
 パソコンなら「ぐうぜんはっくつ」と打てば、一瞬で、「偶然発掘」と出てくるのです。
 スマホなら、こちらが最後まで入力しないうちから、「あなたが言いたいのはこれでしょう」と候補まで並べてくれます。 便利ですね。便利すぎます。
 そして、こちらの頭はますます働かなくなるのですよ。

 その日は急いでいたので、とうとう諦めて、
「ぐうぜんはっくつ」と、全部ひらがなで書いてしまいました。
 いやはや、幼稚園児に戻ってしまったようなメモですよ。
 写真を受け取った友人は、写真そのものより、
「おい、あほまろ、大丈夫か?」
 と、そちらを心配したかもしれませんね。
 しかし、不思議なのです。
「偶然」が書けなかったくせに、「薔薇」や「憂鬱」なら、まだ書けるような気がするのですよ。
 いや、「ような気がする」と書いたところが、すでに怪しいのですけどね。
 でも、急に紙を渡されて、
「はい、では『薔薇』を書いてください」
なんて言われたら、絶対に駆けないかも。

「今日は国際識字デーなので、字を書くより識字について考える日です」
 などと屁理屈をこねて逃げ出すかもしれません。昔は電話番号だって何十件も頭に入っていました。
 友人の家、自宅、会社、馴染みの店――。
 ところが携帯電話が普及してからは、電話番号を覚える必要がなくなりました。「○○さんに電話」と押せば機械が勝手につないでくれます。

 漢字も同じなのでしょう。昔は頭の中から漢字を探し出し、形を思い浮かべ、手を動かして書いていました。それが今では、読み方さえ分かれば機械が候補を並べてくれます。
 つまり、人間の頭の中に置いていた「漢字辞典」を、パソコンやスマホの中へ引っ越しさせてしまったようなものですね。
 こうした、読めるのに書こうとすると漢字が思い出せない現象は、一般に「漢字健忘」などと呼ばれています。

 もちろん、パソコンやスマホによって日本人そのものの「識字率が下がった」という話とは別です。文字を読んで意味を理解できる能力と、漢字を何も見ずに正確に手書きできる能力は、似ているようで少し違います。
 むしろ現代人は、昔よりはるかに大量の文字を読んでいるのかもしれません。

。

 朝からニュースを読み、メールを読み、SNSを読み、検索結果を読み、パソコンの画面を読み、スマホを開けばまた文字を読む。
 一日中、文字だらけです。ところが、読む量は増えたのに、書く量は減ってしまった。
ここが面白いところですね。

 江戸時代の寺子屋では、子どもたちは手本を見ながら何度も文字を書きました。手紙も帳面も、当然すべて手書きです。文字は「目で覚えるもの」であると同時に、「手で覚えるもの」でもあったのでしょう。
 それが現代では、指一本で文字が出てきます。しかも最近は音声入力までありますから、指すら要りません。 このまま進歩していったら、そのうち、
「昔の人間は、自分の手で文字を書いていたそうですよ」
「ええっ、そんな面倒なことを!」
 なんて会話をする時代が来るのでしょうか。
 便利になること自体は悪いことではありません。

 あほまろだって毎日パソコンを使って日記を書いているのですから、「昔の手書きに戻るべきだ」なんて言ったら、明日の朝から困るのは自分ですけどね。
 それどころか、パソコンが無ければ、これだけ長い日記を毎日書き続けることなど、とてもできなかったでしょう。
 ですからデジタル機器は、あほまろから文字を奪ったのではなく、むしろ文字を書く機会を増やしてくれた道具でもあるのです。

 ただし、便利な道具には、ちゃんと代金があります。お金ではありません。使わなくなった能力を、少しずつ道具に預けてしまうこと。それが便利さの代金なのかもしれませんね。
 昔の人は辞書を引きました。
 今の人は検索します。
 昔の人は道を覚えました。
 今の人はスマホの地図を見ます。
 昔の人は電話番号を覚えました。
 今の人は連絡先をタップします。
 そして、あほまろは「偶然発掘」が書けず、「ぐうぜんはっくつ」と書いてしまいました。

 文明はずいぶん進歩したはずなのに、あほまろのメモだけを見れば、ちょっと退化したようにも見えますね。
 しかし、考えてみれば文字というものは、完璧に書けることだけが大切なのではありません。伝えたいことがあり、それを誰かに伝えるために文字を使う。
 昔の写真を見つけて、「懐かしいだろうから、この人に渡してあげたい」と思う。
 その気持ちを伝えるためなら、「偶然発掘」でも、「ぐうぜんはっくつ」でも、意味はちゃんと伝わります。

 文字は、人間が人間に何かを伝えるために生まれたものなのですからね。
 そう考えると、「国際識字デー」に本当に考えるべきなのは、難しい漢字を何個書けるかではなく、文字によって知識を得られること、そして自分の考えや気持ちを誰かに伝えられることのありがたさなのかもしれません。
 みなさんにもありませんか。
 新聞やスマホで見れば何でもない漢字なのに、いざ手書きしようとすると、
「あれ、この字どう書くんだっけ?」
 と、ペンを持ったまま固まってしまうこと。
 もしあるのなら、ご安心ください。
 少なくとも、あほまろという仲間がここ浅草におりますよ。

「読めるのに 書こうとすれば字が逃げる スマホの中に漢字住みけり」

 もうひとつ、自嘲を込めて、

「寺子屋の 昔を偲ぶ識字の日 ぐうぜんはっくつ全部ひらがな」(阿呆人也)

 文明の進歩とは、人間が賢くなることなのか、それとも賢い機械に頼ることが上手になることなのか――。「国際識字デー」の今日、「偶然発掘」の四文字が出てこなかったあほまろは、そんなことを考えてしまったのでありました。

 ハナカイドウの実。

 浅草寺には、まだ仲見世のお店が開く前の早朝から、大勢の方々や外国人観光客がお参りにいらっしゃいます。 昼間の浅草寺は、雷門から仲見世、本堂まで人の波が途切れることもありませんが、早朝はまったく別の顔を見せてくれるのですよ。

 静かな本堂で手を合わせる人、宝蔵門の向こうに続く仲見世をゆっくり歩く人、手水舎で日本独特の作法を確かめながら水に触れる人。そして、スマホを片手に境内の風景を熱心に記録する人もおります。

 国籍も言葉も服装も違いますが、不思議なことに、観音様の前ではみなさん静かになりますね。

 中には作法が分からず、周囲の日本人を横目で見ながら「これで合っているのかな」と恐る恐る真似をする方もおりますが、それで良いのですよ。観音様だって、外国からわざわざ訪ねて来た方に「作法が違う」なんて野暮なことはおっしゃらないでしょうからね。

 そして最近では、着物姿で境内を歩く外国人も珍しくなくなりました。
 日本人のほうが普段は着物を着なくなったというのに、外国からやって来た方々が浅草で着物を楽しんでいる。これも時代なのでしょう。

 あほまろが毎朝見ている浅草寺は、午前四時を過ぎた頃から少しずつ世界の言葉が聞こえ始めます。

 浅草の朝は、日本人だけの朝ではなくなりました。
 世界中からやって来た人たちが、まだ静かな境内でそれぞれの「日本」を見つけているのです。
 あほまろは、そんな光景を眺めながら、今日もシャッターを切っているのでありますよ。

 おはようございます。守護さん、中村さん、梶原さん。

 おはようございます。今朝は開門2分前にやって来た、野崎さんと高橋さん。

 おはよう益美さん。

 子育地蔵さま、わが家の子どもたちと猫の安全をお守りください。

 日本のナイチンゲールと称される瓜生岩子像。

 深い緑に包まれたイロハモミジもそろそろ紅葉の時期ですね。

 定点観察を続けているソメイヨシノの木。あほまろは、風格ある幹や力強く伸びる枝ぶりはもちろんのこと、とりわけ葉の移ろいに心を惹かれております。

 昨年から落ちることなく枝に残り続けている三枚の葉があります。新しく茂った深緑の葉にそっと覆われ、その存在に気づく人はほとんどおりませんが、あほまろは毎朝、その葉の姿を探してしまうのでございます。

 令和の大改修を終え、広々とした境内西広場。以前とはまったく違う景色になりましたが、開放感あふれる新しい浅草寺の表情が広がっております。

 お店の取り壊し作業が終わった伝法院通りでは、これから石垣や塀の補修工事が始まるのです。

 あほまろは今日も秘密基地でダラダラ過ごしますよ。

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 夕べの睡眠は84%でした。

 おはようヒロちゃん。

 今朝の朝の朝食は、肉と野菜とゆで卵など。デザートはブドウ。

 妻のコレクションは、いちごとりんご。

 昨日の東京スカイツリー。

 しゅと犬くん。

 あほまろお帰りなさい。

 夕べの夜の夕食の晩ご飯は、シュウマイなどの中華飯。デザートはモモ。

 妻のコレクションは、エミリーちゃんとピンキーちゃん。

Memo
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