令和7年(2025)8月22日(金)旧暦閏6月29日 仏滅
今朝の撮影 Data SONY α1-2 SONY FE 24-240mm/F3.5-6.3 OSS iPhone 16ProMAX 現像 Adobe PhotoshopLightroomCC 撮影枚数576枚
- 痛み治まらぬ「チンチン電車の日」 -
あほまろの痛風は、いよいよ最高潮に達してしまいました。歩くことすらままならず、昨夜はほとんど眠れなかったのでございます。 午後七時を回った頃、観念して布団に身を沈めました。すると、ヒロちゃんがいつものように「お守りしますよ」とばかりに身体にぴたりと寄り添ってきました。しかし、どちらを向いても痛みが襲いかかり、寝返りを打たずにはいられません。やがて、賢いヒロちゃんはあほまろの異変を察知したのでしょう、自分のベッドへと静かに退いてしまいました。まるで、「今日はお手上げです」と言わんばかりでございましたよ。 一瞬だけウトウトすることはできましたが、熟睡とはほど遠い夜でした。枕元の時計を睨みつけるたびに、八時、九時、十時と無情に時は進み、その度に痛みと悔しさが胸を締めつける。これほど惨めな夜があるものかと、まさに「苦の夜更け」でございました。 睡眠計の記録によれば、午前零時過ぎからようやく深い眠りの片鱗に触れたようですが、それも束の間。四時前には無念の覚醒でございます。おかげさまで、本日も恒例の早朝散歩は中止のやむなきに至りました。 その代わりに届いたのは、ウメちゃんママからのメッセージ。 今朝の浅草はカラスたちが大騒ぎで、穏やかな夜明けではなかったとのこと。キョエちゃん親子は遠くから控えめに鳴くだけで姿を見せず、代わって侵略者のカラスたちがギャーギャーと威張り散らしていたとか。まるで、あほまろの痛風に合わせるかのように、境内全体が騒がしく落ち着かぬ空気に包まれていたのです。 痛風よ、そろそろ潮時にしてくれぬか。歩けぬ不自由も辛いが、こうして大切な朝の出会いを失うのが、あほまろにとっては何よりの痛手なのでございます。 「痛みゆえ 眠りも逃げて 夜長し カラス追われて ますます苦し」(阿呆人也) 今日は「チンチン電車の日」。明治三十六(1903)年、東京電車鉄道の路面電車が新橋〜品川間で営業を開始し、東京の街に初めて電気の力で走る路面電車が姿を現した日でございます。 もっとも、日本で初めて路面電車が走ったのは、東京ではなく京都よりももっと前、明治二十三(1890)年のこと。上野公園で開かれた第3回内国勧業博覧会の会場内に敷かれた短い線路で、試験的に運転されたのが最初なのでございます。そして、日本で最初に一般道路を堂々と走ったのが、明治二十八(1895)年、京都電気鉄道の塩小路東洞院〜伏見京橋間。東京が電車を手にしたのは、そこからさらに八年も後のことでした。 とはいえ、東京が先んじていたこともありますよ。明治十五(1882)年には馬車鉄道が登場し、路面にレールを敷いて走ったのは東京が嚆矢。もっとも、馬の糞尿による悪臭に沿線住民が辟易し、やがて電気動力への転換が迫られていったわけです。時代の流れは、常に新しいものを呼び込むのですからね。 思い返せば、あほまろの学生時代は路面電車を利用しておりましたよ。東急世田谷線と都電を使って通学していたのでした。しかし気がつけば、その多くは姿を消し、今や「都電荒川線」だけがひっそりと残るのみ。時代遅れと言われつつも、沿線には昔ながらの商店街が息づき、春には桜、初夏にはバラが彩り、歴史の香り漂う名所旧跡も少なくありません。今も地域の身近な足として、人々に愛され続けているのです。 もっとも「チンチン電車」という呼び名、昨今では卑猥な冗談に用いられたり、かつては「女は乗せないチンチン電車」や、ストリップ小屋の「客を乗せない花電車」などと揶揄されたこともありましたよね。 しかし本来は、電車が発する「チンチン」という警鐘の音が由来。人々はその音を耳にして、親しみを込めてそう呼ぶようになったのでございます。 痛風が治った暁には、この「チンチン電車の日」にこそ荒川線へ乗り込み、窓外を流れる懐かしき東京の風景に身を委ねたかったですよ。 「チンチンと 響きて走る 電車かな 痛みなければ 今日も乗りたし」(阿呆人也) ------------------------------------------------------- おはようヒロちゃん。 今朝の朝の朝食は、ウメちゃん家の芋煮にトウモロコシとクロワッサン。 妻のコレクションは、千草ちゃんとチリちゃん。 昨日の東京スカイツリー。 しゅと犬くん。 あほまろお帰りなさい。 夕べの夜の夕食の晩ご飯は、ウメちゃん家の芋煮にトウモロコシと天丼。 妻のコレクションは、音威子府のハルさんと瘋癲のリリーちゃん。 Memo iPhone 16 ProMAX