『つくづくと』
ポカポカ陽気の朝になりましたね・・・。そのためなのか昨夜は寝苦しい夜でしたよ。なかなか眠れないので、ベッドの中にノートパソコンを持ち込み、あれこれ調べ物をしているうちになんとか眠りにつけたのでしたが、突然女房に起こされてしまったのです。犬がどうのこうの、訳の分からないことを言いながら居間に出ていったのです。時計を見るとまだ2時ですよ・・・。おかげで、眠りを覚ましたナナちゃんまでが騒ぎだし、再び眠れなくなってしまったんだよね・・・。
まったくよく言ったもので、古来から秋は夜が長く恐い季節なんですよね。秋の夜長、秋夜、夜半の秋、秋の宵、秋の夜はいっそう更けわたった時刻に、なにかが起こるってことなのかな・・・。おかげで、今日のあほまろは寝不足なんですよ。あぁ、生あくびが止まりません。
WEB埼玉の記事で、何を今更ウソかマコトか「浅草の浅草寺のご本尊は、その昔、飯能市岩渕の歓喜寺岩井堂にあった観音様だった」と、興味有る記事を見つけました。記事によると、浅草の浅草寺のご本尊は、その昔、飯能市岩渕の歓喜寺岩井堂にあった観音様で、大暴風雨に遭い、崖下の成木川に転落し、観音像を失ったのでしたが、それが隅田川で兄弟の漁師の網に拾われたとのこと。
それが判ったのは明治になってから。廃仏毀釈が発令された折りに浅草寺側も秘仏の開扉を迫られ、観音像が当時の役人に確認され、秘仏の二枚のスケッチを残したそうです。その一枚に、「龍間沢(たつまざわ)」の銘があり、紛失前の岩井堂観音にも「龍間沢」という銘があり、「龍間沢(たつまざわ)」の観音様と呼ばれていたことが伝えられているとのことです。
昭和8年9月、当時の浅草寺執事長で第24代貫首の清水谷恭順師が岩井堂を訪れ、「全国各地で浅草寺発祥の地を名乗る話は多いが、岩井堂の例は最も信頼性が高い」という話を聞いた飯能市出身の武蔵国郷土史研究会主宰の入子助蔵さんが語っているのです。
今更、返せとまでは言ってませんが、岩井堂観音を発祥とする説を重視し、岩井堂を観光資源として活用できないかを考えているようです。
とはいえ、浅草寺の観音様は誰も見たことが無く、本当に「龍間沢(たつまざわ)」の銘が刻まれているか、誰も確かめることは出来ないので、謎めいた観音伝説は謎のままにしておいた方が、観音様のお膝元で暮らす者にとってありがたいことなんですけどね・・・。
今朝は、ナナちゃんも寝不足。まだ目が起きてないよ。

散歩から帰って来ると、お目々パッチリになったよ。

今日の日の出は午前5時48分。

雷門前にはその2分前に到着です。

これから日の出もどんどん遅くなって行くんですよ。

『東京スカイツリー』
そうなったら、朝は暗くて定位置からは撮れなくなってしまうかも知れませんね。


散歩の帰りはその2時間後、この時間になると逆光で更に不鮮明になってしまうんですよね・・・。ここを撮るには、午後3時以降が良く、秘密基地からの記録を続けているのですよ。

「和みのぽち袋と絵封筒」展
遊び心たっぷりの「ぽち袋」の世界です。
これっぽちの小ふくろの中に凝らされ、思いもつかない粋なおもしろさに出会えるでしょう。 ぽち袋は小さいので、当然、中い入れるお金もちっちゃいのです。
誰が名付けたのかは知れませんが、「これっぽち」の「ぽち」から派生した言葉じゃ無いのでしょうか。
冠婚葬祭で使われる熨斗袋と違い、非公式の場所での使用に限られているため、めちゃくちゃ粋に洒落た小袋は子どもたちへのお年玉、またお使いのお駄賃など、立場が上の者から下の者にしか使うことが出来ないのが「ぽち袋」なのです。
それまでの心付けは、懐紙に包んだお捻りだったのですが、このぽち袋に変わっていった背景には、郵便制度の導入が大きく関わっているのです。我が国では古来から文章の秘密を保持する手段として紙で包んだ手紙を封紙などで封じて渡していたのでしたが、明治四年に郵便業務開始に伴って郵便局が開設、切手と共に封筒も売られたのです。
ぽち袋が始めて市販されたのは、明治15年、日本橋の和紙店「金華堂」で、それまで和紙の包みであった大入り袋の封筒版でした。その後、東京の和紙屋の「開運堂」、「榛原」、京都の「さくら井屋」などからも次々と洒落た袋が売り出され、全国に普及していきました。それに端を発したのが千社札の交換会から派生した、ぽち袋交換会でした。大正8年5月、浅草仲見世中正倶楽部開催の「江戸会」にて、始めて開催され、凝った意匠のぽち袋が登場したのも、その頃からではないでしょうか。
これっぽちの気になる小ぶくろをお楽しみください。

会場:テプコ浅草館 協力:江戸ネット
会期:2009年9月15日(火)〜11月15日(日)
休館:毎週月曜日(月曜日が休日の場合は翌日)
電話:03(5827)3800
入場無料 |