蒸し暑い散歩、これを残暑と言うざんしょ。汗だくだったよ。

毎朝、同じ場所を撮ってて良く飽きませんね。今朝、ソコの女に声をかけられてしまったよ。

でしょうね・・・、誰の目にも変なオヤジに見えてるんだろうな・・・。

何を言われても、ただモクモク同じ場所を撮り続けるんだ。他人から見て無意味であっても、あほまろにとっては、やっぱり無意味かも知れないなとか、余計なこと真剣に考えさせられてしまったんだよな・・・。

いまいち意味が判らなかった、唐ゼミの昼下がりの坂道よりも象徴的なシークエンスにも、出会えることがあるのですから。

あほまろには、お芝居の世界は良く判らないんだけど、「題名(タイトル)」には、もの凄く感心があるのです。お芝居でも、映画でも、小説でも、その作品の導入に欠かせないのが「題名」ですよね。たとえば、題名で物語の顛末を暗示させる松本清張の小説は、分かり易い例として、今ひとつ理解に苦しむのが多いのが、題名から内容が浮かんでこない唐十郎さんのお芝居の題名だったのです。

しかし、横浜国大に唐十郎氏を招き入れた室井教授の著書「教室を路地に!」を読み、なんとなく唐十郎氏の性格に触れながら、常識にとらわれない柔らかな発想と、きらきら光る感性を感じ、彼はまだ子どもなのだと感じてしまうのです。子どもの発想は、どんな秀才でも、偉人でも適わないと思ってしまいました。

「教室を路地に!」を読み終え、先日の浅草公演「海の牙」を童心に戻って振り返ってみると、故郷の人通りが少ない静かな昼下がりの坂道に、計り知れない希望を感じて育った自分が見えてくるのでした。

朝の散歩は当然朝ですが、毎日毎日が同じ景色であっても、あほまろには、必ずどこかが違って見える「人通りも少ない静かな昼下がりの坂道」に見えるのです。たぶん、あほまろも子どものままで老人になってしまった人間なのかも知れませんね・・・。

他人から見て無意味なことだって、子どもには毎日違う意味があるんだよ。これからは、ソコの女、余計なことは言わないでくれよな。
子どもの頃の昼下がりは、学校が終わった後、希望に満ちた時間だったのです。そうだ、あほまろの気まぐれ日記は「昼下がりの坂道」なのかも知れない。

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