寛永通寳概要
「新寛永通寳歌留多」は、寛文期以降に鋳造発行されたと 考えられる「新寛永通
寳」を、 |
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寛永通寳の最盛期 新寛永通寳 幕府が新たに寛永通
寳の量産を開始したのは、寛 文8年。 これ以後の寛永通寳は、以前のものと区別して「新寛永通寳」と称されている。 新寛永通寳 の最初の鋳銭地は、江戸の亀戸村であ ったといわれる。この時期の寛永通寳には、京都の 大仏 を鋳直して造ったという伝説が残っているが、 実のところは定かではない。おそらくは、以後 全国 津々浦々の人々の生活にまで浸透してゆくことにな るこの銭の威光を寓すべく、後代に創 作された物語 とも考えられるが、この伝説にちなみ、この時期の 寛永通寳は「大仏銭」という 俗称で呼ばれることが ある。また、背に「文」の字が鋳つけられているも のが多く、それは 「文銭」と称される。面の「寛」 字と併せて、発行年である「寛文」を表わしている ともいわ れる。寛永通寳の亀戸における鋳造は、延 宝期以降には不必要になった(改元のため発行年を 表わせなくなってしまったため)背の「文」が削除 され、天和3年まで続けられた。新井白石 『折たく 柴の記』によれば、この16年に及ぶ一大鋳銭事業 によって造られた寛永通 寳は、 197万貫にも上る という。 |
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ともあれ、亀戸からの新鋳銭の大量供給の意義は、
それによって国内の銭貨需要に対応でき るようにな ったということばかりではない。それまでの銭貨統 一政策の不徹底のために市場に 混在し続けていた「 古銭」の一掃が成し遂げられ、ここにようやく幕府 による本格的な銭貨統 一が完成をみたことをも意味 する。また、この時の寛永通寳が直径8分・量目1 匁と、従来の ものにくらべてかなり厳重にかたちが 定められたというのも、誠に象徴的なことであろう。 幕 府の貨幣統一願望がこの「かたち」の統一といっ た行為にも表われているように見えるからだ。 全国統一のの ぞみを達成させたということにほかならない。「寛 永通寳の時代」の始まりは 、 実質的な意味での「徳 川の時代」の始まりでもあったのだ。 さて、こうして増鋳された寛永 通寳は、全国に浸 透していった。ところが、通貨が至るところに浸透 するということは、同時 に、それまで貨幣経済には 無縁であったところまでをもそれに巻き込み絡めと ってしまうとい うことでもある。貨幣経済が全国規 模で範囲を拡大したために、寛永通寳はまたもや不 足をき たす。折しも銅山の開発が盛んではあったが、 そこで産出する銅は海外に流出してしまい、国 内の 銅不足は解消されたわけではない。 |
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この銭不足・銅不足の状況打破を図ったのが、元
禄10年に江戸・亀戸村及び京都七条で行 われた寛 永通寳のさらなる大増鋳である。この銅不足のうち に行われた増鋳事業は、当然のこ とながら、貨幣の 品位低下をもたらした。この時期に鋳造された寛永 通寳のほとんどが、寛文 〜天和期に定められ統一さ れた「直径8分・量目1匁」の原則を無視した、小 型で薄手、軽量 のものである。これらには、時の勘 定奉行・荻原重秀の名にちなんで「荻原銭」という 俗称が 与えられているが、その名称はどうもしばし ば負の評価を込めた意味で用いられているようだ。 しかし、その評価は妥当なものではあるまい。 荻原はいう、たとえ瓦礫であれ国家の造った 貨幣 は用いるべきで、ましてや今回鋳造する寛永通寳は 従来にくらべて質的に低下はしている ものの、紙幣 よりは勝っているではないか、と。換言すれば、こ れは、どんな粗悪なものであ れ たとえ瓦礫の如 きものでも! 幕府が発行し通用を強制する以上は、 原則的にその価値 を保証するつもりであることを明 言したものである。つまり、この品位低下は、単に 寛永通寳 が名目貨幣により近づいた、ということに 過ぎない。また、ここでは同じく名目貨幣である紙 幣が対比されているが、「勝っている」というのは その素材価値が紙よりはいくらかまし、と いう点ば かりではなかろう。 |
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発行に関する責任の所在が地方領主や商人にあっ
た紙幣にくらべれば、少なくとも幕府 (国 家)が責 任を負う以上は、その保証の面でも「勝っている」 という自負が、彼にはあったに違 いない。実際、領 主や商人が紙幣の濫発を繰り返し、「札潰し」と称 してはそれを反故同然に していったことを考えれば、 如何に品位が低下していようが寛永通寳はまだ「ま し」である。 荻原自身の行状はひとまず措くとして、 この件に関しての見解自体は理にかなっていよう。 無 論、彼の見解もこの銭自体も、当時の人々には受 け入れがたいものではあったらしく、これら に関し て不満を感じる者がいなかったわけではない。とは いってもやはり背に腹はかえられぬ というのが世の ならい、この増鋳事業によって不足しがちであった 寛永通寳は市場に十二分に 行き渡った。 後、正徳4年から享保3年の間には、慶長復古政 策の一貫として、文銭と同一 規格にまで品位を戻し た良銭が一時期鋳造された。なお、この時鋳銭を許 可された佐渡におい て、背に「佐」字を持つ寛永通寳が鋳造された。このいわゆる「背佐」が、背の文 によって鋳 銭地を表示したことが確かなものの濫觴 であろう。この背佐や文銭のように、背に鋳造期や 鋳 造地を示す何らかの文字のある新寛永通寳を「有 背銭(背文銭)」と呼んでいる。また、同様 に鋳期 や鋳地の表示をするものとしては、銭の輪(縁)に 極印を持つものもある。 |
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さて、元文期ともなると、こうした状況にも変化
が現われる。まず、初めて鉄製の寛永通寳 が現われ た。鉄は銅にくらべて融点が高いため、実は銅より も扱いづらく、鋳造の際には加工 により高度な技術 を要する素材なのである。しかも、鉄は錆びやすい という欠点もある。しか しながら、その難しい鉄を もあえて素材として活用するには理由があった。全 国的な産銅量の 減少がそれである。開発が進み、豊 富な産出量を誇っていた日本の銅山も遂に資源が枯 渇し始 め、銭貨の素材確保はますます困難になる。 そこで寛永通寳の質は再び低下、銭座によっては 素 材を価格の安い鉄に切り替えるところも出てきたの である。また、大規模な増鋳政策に伴っ て、鋳銭希 望者を大募集、鋳銭地の数が大幅に増化したのもこ の時期である。全国各地に設け られた銭座の数は、 判明しているだけでも20ヵ所余りにも及ぶ。 この時期の寛永通 寳の濫 鋳は、流通量の過多によ る銭相場の下落を引き起こし、庶民の生活をおびや かすようになった。 そこで、明和2年以降、幕府は 新たに鋳銭に関する統制・再編成を行う。すなわち、 従来の銭 座請負方式から鋳銭定座(常設銭座)方式 への転換を行い、金座直轄の銭座以外では鋳銭を原 則的に禁止することとしたのである。こうすること によって、幕府は全国の鋳銭量 の掌握と統 制とを図 ったのであるが、この金座による鋳銭事業独占に対 し反感を持ったのが、金座に対抗 意識を持つ銀座で あった。 |
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銀座は、滞納していた上納銀をそれによって速や かに返済するという名目で、同年、真鍮 |
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混乱と終焉 幕末・明治、そして現代
幕末期には鉄製の寛永通寳が、殊に四文銭を中心 として、幕府のみならず各地方の諸藩においても次 々に発行された。その中には粗雑なものも 多く含ま れ、また密鋳銭もかなり横行していた。こうした各 地における鋳銭は、明和期の統制 政策に反するもの であったが、社会的な混乱と幕府自体の権威失墜と がそれを可能ならしめた のであった。さらに、市場 では、銅銭・真鍮銭・鉄銭と、様々な素材のものや 品位・状態の劣 悪なものが入り乱れ、銭相場も混沌 とした状況に陥った。しかし、幕府にはそれを鎮め ること はできず、かえって自ら天然相場制の採用を 認める方針を打ち出す。これは、同一の価値を持 た せたはずの寛永通寳に、その素材に応じて差異のあ ることを認めた、ということ、つまり鉄 銭に代表さ れる粗悪な銭貨を名目貨幣として発行しておきなが ら、それを保証すべき責任を放 棄してしまったこと にほかならない。ちなみに、この時両替商が協議の 上奉行所の認可を得て 決められた相場では、鉄銭1 文に対し文銭並びに耳白銭(正徳〜享保期に造られ た、文銭と同 一規格の寛永通寳)が6文に、その他 の銅銭が4文に、真鍮の四文銭が12文に相当すると され た。 |
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そして、明治新政府が樹立した。明治4年、近代
幣制の確立をめざす政府の発行した新貨と 寛永通寳 との交換比率が定められた。それは、寛永通寳銅銭 1枚が1厘と交換されるべきこと を基準としたらし い。したがって、額面は当四銭であっても素材銅と しては、一文銭のおよそ 2倍用いているに過ぎない 四文銭は2厘と交換されたのである。さらに同5年 の布告では、同 様に四文銭鉄銭8枚、一文銭鉄銭1 6枚がそれぞれ新貨1厘と決められている。 寛永通寳と 新貨幣との交換が実施された。しかし ながら、寛永通寳はこの時、その通用が禁止された とい うわけではない。通貨として生き続ける寛永通寳。それが法律上禁止されるに至ったのは、なん と 昭和28年7月15日の法律第60号「小額通貨の 整理および支払金の端数計算に関する法 律」によっ てである。この法律で、寛永通寳の通用禁止は同年 12月末限り、引き替え期間は 翌29年1月4日よ り6月30日まで、とされた。 廃貨となり本来的な役割を終えた寛永通 寳は、し かし、それでも密やかながら生き続けてきた。それ を愛玩する人々の、趣味の対象と して。あるいは、 生活の中に、器物や服飾や菓子のデザインとして。 この銭のどこに、そうし た魅力が潜んでいるのか。 その解答はおそらく、このわずか数gの金属板に命 を与え続けてき たあるいは続けてゆく人の数だけ、 用意されているといっても過言ではあるまい。 |
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