浅草もすっかり春でめいてきました。今朝も暖かい日差しに春を感じながら朝の散歩を済ませてきました。写真の富士山は、散歩から帰って空が明るくなってからの写真です。
日本と云えば、「富士山」と「桜」。こうして見ると、春の富士山って、なんだか平和の象徴のようにも見えてきますね。

夕べもナナちゃん、あほまろのベッドの上で寝ていました。最初はヒロちゃんも居たんだけど、あまりにしつこくナナちゃんにくっつくので、ナナちゃんが怒ってしまったので、夜中に居間に戻してしまったんだよ。ヒロちゃんの一途な気持は判るんだけど、ナナちゃんにとって、ストーカーみたいに思われているのかもね。

あの忌まわしい東京大空襲から、今日で66年目になります。昭和20(1945)年3月10日の空襲だけで、約10万人が命を落としたっていうのに、東京には、空襲犠牲者の遺骨を納める「東京都慰霊堂」だって、元々は関東大震災被災者の遺骨を納める施設を利用しているだけ。
東京大空襲の被災者の方々も、高齢化が進んでいます。みんな、生きているうちに当時のことを伝えたいと思っているはず。そんなことで、この時期になると都内各所で東京大空襲展や、被災者の声を聞く会などが開催されています。しかし、空襲を語れる人は、いま70代以上になってしまいました。東京都の「平和祈念館(仮称)」建設計画も、石原都政になってから財政難と塩漬けになったままなのです。
東京都には、無駄な施設がいっぱい。そのひとつを「平和祈念館」の充てることだって、やろうと思えば出来るはず。東京大空襲犠牲者の追悼や戦争体験の継承など、後世に伝え残すためにも、我々都民は、平和を保つにはどうすべきかを考えてくれそうな人が、都知事になってくれることを望むだけです。
東京大空襲で、関東大震災にも耐え忍んだ浅草寺五重塔がアメリカ軍の無差別攻撃で焼け落ちてしまいました。

かつての五重塔の後ろに立っていた大銀杏。66年経った今でも、当時の焼け跡を見ることができます。

日本都市に対する空襲で雨のように投下された焼夷弾で、総てが焼け落ちてしまった痕跡。触ると今でも指に黒い炭が付いてくるのです。
戦後、爆撃が無差別殺戮だったかは、連合国側で問われることはなかった。
無防備な市民を襲う空からの脅威で世界は何を学んだのか。66年前の戦争は今もそれを問いかけているようです。

こちらは、五重塔前の大銀杏。推定寿命推定600年。
幹の太さ5・5メートル。高さ約7メートル。

空爆で上部のほとんどが失われてしまっても、66年経った今でも、生きています。

建造物は元通りに復元する事が出来ます。しかし、樹木は復元する事が不可能なのです。だからこそ「樹木は、その街の歴史を雄弁に物語る」と云われているのです。これは東京、浅草に限った事ではありません。広島・長崎、又、海外でも同じ事が言えます。
(浅草・戦災樹木を伝える運動の岡崎屋さんのホームページ)

浅草寺境内には十数本の戦災、震災樹木が生きています。

あほまろとナナちゃん、戦後の平和な時代に産まれて来て良かったですよ。戦争はもう無いとして、恐いのが地震ですね。

昨日は、三陸沖を震源とする震度5の地震が起こりました。また、今朝もその余震と思われる震度4の地震が発生しています。

東京は。大正12年の関東大震災から88年経ちます。「南関東で発生するマグニチュード7程度の地震の今後30年以内の発生確率は70%程度」という政府の地震予知研究推進本部による予測結果も出ているようで、安心は出来ませんね。

地震国日本、何処に居ても地震が来る確立は一緒ですよね。もし東京に大地震が起こったら、あほまろはナナちゃんだけを連れて避難するのでしょうね。それと、たぶんカメラとノートパソコンだけは忘れ無いで持ち出すでしょう。そのために、いつでも持ち出せる用に、机の上で備えているのです。
もしも、あほまろとナナちゃんが助かっていたら、避難場所からこの日記を書いているでしょう。ナナちゃんの写真付きでね。

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