相変わらず暑い朝です。日の出と同時に気温もうなぎ登り、仲見世を歩きながら、携帯電話の情報サイトで現在の温度を見ると、すでに29度になっているのです。この調子じゃ、今日は真夏日になること間違い無しですね・・・。連日の暑さにようやく慣れてきたナナちゃんですが、今朝の散歩は舌出しっぱなし、100メートルおきに、あほまろのズボンを引っ張って、水をせがむんですよ。犬は汗はかきませんが、長い舌から涎のようなものがダラダラ、たぶんこれが人間の汗と同じような働きをしているのかもね。
ナナちゃんは、今朝の表紙の写真のように、大きな口を開けっ放しで、ず〜っと舌を出してハアハアいってたのです。

今年のお盆も終戦記念日も終わると、お盆休みはもちろん、子どもたちの夏休みも終わりに近づいてくるのですよね。あほまろが小学生の頃、この時期になると、終戦で満州から引き上げて来た父親の戦争体験談をよく聞かされました。
その一部を掻い摘んでみます。
戦時中は部隊の規律を遵守しなければ、日本から遠く離れた満州の地で生きていけないと、理不尽な上官の指示に背くことなく従っていたのですが、いざ、敗戦の無秩序状態で、一兵卒の怒りが爆発、暴動を恐れた上官たちはそそくさと部隊の車で逃げだしてしまったそうです。
残された兵隊達は、全く情報の無いまま、飲まず食わずでとりあえず港を目指して夜通し歩き、ようやく大連付近まで辿り着くと、大連はすでにソ連軍に占領、大連港は閉鎖されていたのです。それより、もし、ソ連軍に見付かって捕虜になったら大変と、軍服や軍に関する証拠を総て捨て民間人になりすまし、引き揚げ者として帰国することが出来たのでした。
当時は、非戦闘員としての民間人は、「引揚者」。日本軍の軍人として出征した者は、「復員兵」と区別され、民間人には上陸地で「引揚証明書」をもらい、それによって実家に帰る旅費が支給されたそうです。
父は、「引揚証明書」を、ボロボロになっても大切に保管し、戦争体験談を語る時には、必ずといって良いほど、その汚い紙を出して見せてくれたのでした。
あほまろの両親は、すでに他界し、あの「引揚証明書」の行方もわかりません。でも、今でもあほまろの頭の中に、今も残っているのです。でも、帰還手当や帰郷旅費の項目に書かれたいた数字は思い出せませんけど、舞鶴から北海道までの旅費が記載されていたのでしょう。
終戦記念日になると、マスコミは、悲惨な戦争が行われた事実だけが流されますが、日本がアジアで何をしたか、日本人が外地でどんな暮らしをしていたのかはほとんど触れていません。
戦後生まれのあほまろですが、このように父親の話によって、戦争を記憶していますが、孫の世代に至ると、日本が戦争に負けて満州から引き上げてきた過程などは、勉強する機会は極めて少ないでしょう。なせ日本人が満州に入植していたか。なぜソ連軍が不可侵条約を破って侵攻して来たのかなど、受験勉強に役立たないからと、切り捨ててしまうから、日本は「平和ボケ」と、いわれてしまうのですよね・・・。
またまた愚痴りながら、暑さに拍車をかけてしまったようで、ごめんなさい。

今朝の「ヤマト」。悪戯ばっかりしてるから、

ゲージから出してあげませんよ。

昨日の終戦記念日、浅草寺本堂内にて、「万霊燈籠供養会」が開催されました。

『毎年8月15日の終戦記念日の夕刻、浅草寺本堂では万霊燈籠供養会が執り行われます。この法会は太平洋戦争で亡くなられた戦没者慰霊のための「流燈会(りゅうとうえ)」として昭和21年(1946)に始められたものですが、今日では月遅れのお盆の先祖供養として燈籠を奉納される方々も多くなられました。
普段は午後5時に閉められる本堂の扉ですが、日中の暑さのやや緩んだ夕方6時30分、供養にお集まりの人々が見守るなか、観音さまのご宝前において追善供養の法要が営まれます。』
(浅草寺ホームページより引用)

午後6時半からの法要に伴い燈籠に火が点されます。




本堂での読経に引き続き、外陣にまつられた燈籠の中で、供養法要が行われます。




法要を終えた燈籠は、本堂裏手のかがり火で結界された敷地の中央の炉に積み上げられます。


お焚き上げされるのです。













お盆の送り火も兼ねたお焚き上げ、あほまろも、ご先祖様と亡くなった愛犬たちの冥福をお祈りしてきました。

Memo
Canon EOS5D Mk2
Canon EF16-35mm F2.8L II USM
Canon EF24-70mm F2.8L USM
Canon EF70-200mm F2.8L IS II USM
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